第15回 読解に関する問題

■今回は物語文の読解問題です。あえて答えを書きませんので、考えていただければと思います。最近は著作権の問題があって、なかなか文学作品をこういう素材に使うことができません。ただ著作権は50年なので、明治の作品は使えるようになりました。今回は夏目漱石の「坊ちゃん」からその第1章を採録しました。その後もWEBでごらんいただけますので、この期に漱石を読む機会を作っていただければと思います。

東北大学付属図書館 夏目漱石ライブラリー

■ 坊っちゃん
夏目 漱石:作

一  親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)したからである。小使に負(お)ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、此次(このつぎ)は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 親類の者から西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳(かざ)して、友達に見せて居たら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指位此(この)通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸(さいわい)ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いて居る。然し創痕(きずあと)は死ぬ迄消えぬ。

 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりに聊(いささ)か許(ばか)りの菜園があって、真中に栗の木が一本立って居る。是(こ)れは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに脊戸(せど)を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋(やましろや)と云う質屋の庭続きで、此(この)質屋に勘太郎という十三四の忰(せがれ)が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目の垣根を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕(つら)まえてやった。其(その)時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかゝって来た。向うは二つ許り年上である。弱虫だが力は強い。鉢(はち)の開いた頭を、こっちの胸へ宛(あ)てゝぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中に這入(はい)った。邪魔になって手が使えぬから、無闇(むやみ)に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、左右へぐらぐら靡(なび)いた。仕舞に苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけて置いて、足搦(あしがら)をかけて向(むこう)へ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩(くず)して、自分の領分へ真逆様(まっさかさま)に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。其(その)晩母が山城屋に詫(わ)びに行った序(つい)でに袷の片袖も取り返して来た。

 此外(このほか)いたづらは大分やった。大工の兼公(かねこう)と肴屋(さかなや)の角(かく)をつれて、茂作(もさく)の人参畠(にんじんばたけ)をあらした事がある。人参の芽が出揃(でそろ)わぬ処へ藁(わら)が一面に敷いてあったから、其(その)上で三人が半日相撲(すもう)をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされて仕舞った。古川の持っている田圃(たんぼ)の井戸を埋めて尻(しり)を持ち込まれた事もある。太い孟宗(もうそう)の節を抜いて、深く埋めた中から水が沸(わ)き出て、そこいらの稲に水がかゝる仕掛であった。其(その)時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ插(さ)し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食って居たら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。慥(たし)か罰金(ばっきん)を出して済んだ様である。
 おやじは些(ちっ)ともおれを可愛がって呉(くれ)なかった。母は兄許(ばか)り贔負(ひいき)にして居た。此(この)兄はやに色が白くって、芝居の真似(まね)をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌(ろく)なものにならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。成程(なるほど)碌なものにはならない。御覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。只(ただ)懲役に行かないで生きて居る許りである。

 母が病気で死ぬ二三日(にさんち)前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨(あばらぼね)を撲(う)って大(おおい)に痛かった。母が大層怒って、御前の様なものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊まりに行って居た。するととうとう死んだと云う報知(しらせ)が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれの為めに、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜(くや)しかったから、兄の横っ面を張って大変叱(しか)られた。
 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮らして居た。おやじは何もせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云って居た。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじが有ったもんだ。兄は実業家になるとか云って頻(しき)りに英語を勉強して居た。元来女の様な性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍位の割で喧嘩(けんか)をして居た。ある時将棋(しょうぎ)をさしたら卑怯(ひきょう)な待駒(まちごま)をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間(みけん)へ擲(たた)きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付(いいつ)けた。おやじがおれを勘当すると言い出した。

 其(その)時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当される積もりで居たら、十年来召し使って居る清(きよ)と云う下女が、泣きながらおやじに詫(あや)まって、漸(ようや)くおやじの怒りが解けた。それにも関(かかわ)らずあまりおやじを怖いとは思わなかった。却(かえ)って此(この)清と云う下女に気の毒であった。此(この)下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解(がかい)のときに零落して、つい奉公迄する様になったのだと聞いて居る。だから婆さんである。此(この)婆さんがどう云う因縁か、おれを非常に可愛がって呉(く)れた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想(あいそ)をつかした--おやじも年中持て余している--町内では乱暴者の悪太郎と爪弾(つまはじ)きをする--此(この)おれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性(たち)ではないとあきらめて居たから、他人から木の端の様に取り扱われるのは何とも思わない、却って此(この)清の様にちやほやしてくれるのを不審に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と賞める事が時々あった。然しおれには清の云う意味が分からなかった。好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれは御世辞は嫌だと答えるのが常であった。すると婆さんは夫(それ)だから好い御気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めて居る。自分の力でおれを製造して誇っている様に見える。少々気味がわるかった。

 母が死んでから愈(いよいよ)おれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃(よ)せばいゝのにと思った。気の毒だと思った。夫(それ)でも清は可愛がる。折折は自分の小遣(こづかい)で金鍔(きんつば)や紅梅焼(こうばいやき)を買ってくれる。寒い夜(よる)などはひそかに蕎麦粉(そばこ)を仕入れて置いて、いつの間にか寐(ね)て居る枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼(なべやき)饂飩(うどん)さえ買ってくれた。只食い物許(ばか)りではない。靴足袋(くつたび)ももらった。鉛筆も貰った。帳面も貰った。是(これ)はずっと後(あと)の事であるが金を三円許り貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向で部屋へ持って来て御小遣がなくて御困りでしょう、御使いなさいと云って呉れたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りて置いた。実は大変嬉しかった。其(その)三円を蝦蟇口(がまぐち)へ入れて、懐(ふところ)へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架(こうか)の中へ落して仕舞った。仕方がないから、のそのそ出て来て実は是々(これこれ)だと清に話した所が、清は早速(さっそく)竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出て見たら竹の先へ蝦蟇口の紐(ひも)を引き懸けたのを水で洗って居た。夫(それ)から口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかゝって居た。清は火鉢(ひばち)で乾かして、是(これ)でいゝでしょうと出した。一寸(ちょっと)かいで見て臭いやと云ったら、それじゃ御出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化(ごまか)したか札の代わりに銀貨を三円持って来た。此(この)三円は何に使ったか忘れて仕舞った。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。

 清が物を呉れる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌(きらい)だと云って人に隠れて自分丈(だけ)得をする程嫌な事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ1人に呉れて、兄さんには遣(や)らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄ましたもので御兄様(おあにいさま)は御父様が買って御上げなさるから構いませんと云う。是(これ)は不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負(えこひいき)はせぬ男だ。然し清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺(おぼ)れて居たに違ない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単に是許(こればかり)ではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれを以て将来立身出世して立派なものになると思い込んで居た。其(その)癖勉強をする兄は色許り白くって、迚(とて)も役には立たないと一人できめて仕舞った。こんな婆さんに逢っては叶(かな)わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌(きらい)なひとは屹度(きっと)落ち振れるものと信じて居る。おれは其時から別段何になると云う了見もなかった。然し清がなるなると云うものだから、矢っ張り何かに成れるんだろうと思って居た。今から考えると馬鹿々々しい。ある時抔(など)は清にどんなものになるだろうと聞いて見た事がある。所が清にも別段の考もなかった様だ。只手車(てぐるま)へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。

 夫(それ)から清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気で居た。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てる様な気がして、うん置いてやると返事丈(だけ)はして置いた。所が此(この)女は中々想像の強い女で、あなたはどこが御好き、麹町ですか麻布ですか、御庭へぶらんこを御こしらえ遊ばせ、西洋間は一つで沢山です抔(など)と勝手な計画を独りで並べて居た。其(その)時は家なんか欲しくも何ともなかった、西洋館も日本建(だて)も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは慾がすくなくって、心が奇麗だと云って又賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。 母が死んでから五六年の間は此(この)状態で暮らして居た。おやじには叱られる。兄とは喧嘩する。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望もない。是(これ)で沢山だと思って居た。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思って居た。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。其(その)外に苦になる事は少しもなかった。只おやじが小遣を呉れないには閉口した。

 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中(そっちゅう)で亡くなった。其(その)年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付て任地へ出立(しゅったつ)すると云い出した。おれはどうでもするが宜(よ)かろうと返事をした。どうせ兄の厄介(やっかい)になる気はない。世話をしてくれるにした所で、喧嘩をするから、向(むこう)でも何とか云い出すに極って居る。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。兄は夫(それ)から道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多(がらくた)を二束三文(にそくさんもん)に売った。家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。此(この)方は大分金になった様だが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ケ月以前から、しばらく前途の方向のつく迄神田の小川町(おがわまち)へ下宿して居た。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大(おおい)に残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年を取って入らっしゃっれば、ここが御相続が出来ますものをとしきりに口説(くど)いて居た。もう少し年を取って相続が出来るものなら、今でも相続が出来る筈だ。婆さんは何(なんに)も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じて居る。

 兄とおれは斯様(かよう)に分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下(くんだ)り迄(まで)出掛ける気は毛頭なし、と云って此(この)時のおれは四畳半の安下宿に籠(こも)って、夫(それ)すらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いて見た。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたが御うちを持って、奥さまを御貰いになる迄(まで)は、仕方がないから、甥(おい)の厄介になりましょうと漸く決心した返事をした。此(この)甥は裁判所の書記で先づ今日には差支(さしつかえ)なく暮して居たから、今迄(いままで)も清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清は仮令(たとい)下女奉公はしても年来住み馴れた家(うち)の方がいゝと云って応じなかった。然し今の場合知らぬ屋敷へ奉公易(がえ)をして入(い)らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。夫(それ)にしても早くうちを持ての、妻(さい)を貰えの、来て世話をするのと云う。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。

 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て六百円出して是(これ)を資本にして商買(しょうばい)をするなり、学資にして勉強するなり、どうでも随意に使うがいゝ、其(その)代わりあとは構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ。何の六百円位貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰って置いた。兄は夫(それ)から五十円出して之(これ)を序(ついで)に清に渡してくれと云ったから、異義なく引き受けた。二日立って新橋の停車場(ていしゃば)で分れたぎり兄には其(その)後一遍も逢わない。

 おれは六百円の使用法に就(つい)て寐ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨(うま)く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今の様じゃ人前へ出て教育を受けたと威張れないから詰り損になる許(ばか)りだ。資本抔(など)はどうでもいゝから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円宛使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。夫(それ)からどこの学校に這入ろうと考えたが、学問は生来(しょうらい)どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平(まっぴら)御免だ。新体詩などゝ来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌(きらい)なものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛かったら生徒募集の広告が出て居たから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをして仕舞った。今考えると是(これ)も親譲りの無鉄砲から起った失策だ。

 三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいゝ方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業して仕舞った。自分でも可笑(おか)しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して置いた。
 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入(い)る。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎(いなか)へ行く考えも何もなかった。尤(もっと)も教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、此(この)相談を受けた時、行きましょうと即座に返事をした。是(これ)も親譲りの無鉄砲が祟(たた)ったのである。  引き受けた以上は赴任せねばならぬ。此(この)三年間は四畳半に蟄居(ちっきょ)して小言は只の一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気(のんき)な時節であった。然しこうなると四畳半も引き払わねばならん。生まれてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時許(ばか)りである。今度は鎌倉所(どころ)ではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると浜辺で針の先程小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。只行く許(ばかり)である。尤も少々面倒臭い。

 家を畳んでからも清の所へは折々行った。清の甥と云うのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさえすれば、名にくれと款待(もて)なして呉れた。清はおれを前に置いて、色々おれの自慢を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだ抔(など)などと吹聴(ふいちょう)した事もある。独りで極めて一人で喋舌(しゃべ)るから、こっちは困って顔を赤くした。夫(それ)も一度や二度ではない。折々おれが小さい時寐小便をした事迄(まで)持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いて居たか分らぬ。只清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従の様に考えて居た。自分の主人なら甥の為にも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面(つら)の皮だ。

 愈(いよいよ)約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向の三畳に風邪(かぜ)を引いて寐て居た。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃん何時(いつ)家(うち)を御持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケツトの中に沸(わ)いて来ると思って居る。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのは愈馬鹿気て居る。おれは単簡(たんかん)に当分うちは持たない。田舎に行くんだと云ったら、非常に失望した容子(ようす)で、胡麻塩の鬢(びん)の乱れを頻(しき)りに撫(な)でた。余り気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みには屹度(きっと)帰る」と慰めてやった。夫(それ)でも妙な顔をして居るから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いて見たら「越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。

 出立(しゅったつ)の日には朝から来て、色々世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨(はみがき)と楊子(ようじ)と手拭(てぬぐい)をズックの革鞄(かばん)に入れて呉れた。そんな物は入らないと云っても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車に乗り込んだおれの顔を昵(じっ)と見て「もう御別れになるかも知れません。随分御機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまって居る。おれは泣かなかった。然しもう少しで泣く所であった。汽車が余っ程動きだしてから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、矢っ張り立って居た。何だか大変小さく見えた。

■最後の行で「何だか大変小さく見えた」とあるのはなぜでしょうか?自分のことばで説明しなさい。

(平成18年4月10日)

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